京都市崇仁地区のまちづくりについて

Vol.38関西支部だより
関西支部だより+ 38号(2024年11月版)   
特集「都市経営とまちづくり」No.13

インタビュー記事 前世界人権問題研究センター事務局長 淀野実氏、京都市立芸術大学顧問 田中照人氏、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化芸術企画課 担当課長 堀村清一郎氏

日時:2024年7月29日 場所:世界人権問題研究センター
主催:都市計画学会関西支部編集広報委員会
趣旨:京都市崇仁地区のまちづくりや京都市芸術大学の移転プロジェクトについてお話を伺いました。

写真上左:田中氏、上中:淀野氏、上右:堀村氏

崇仁地区のまちづくりについて

淀野氏:崇仁地区のまちづくりについて、京都市立芸術大学(以下、芸大)が崇仁地区に移転したということだけに焦点が当ってますが、世界人権問題研究センターの移転や京都市立美術工芸高校のキャンパスの中に柳原銀行記念資料館が残っているなど、芸大移転以外にもまちづくりは進んでいます。一言で芸大移転と言っていますが、この4つの要素が絡んでいるということをご理解いただけたらと思います。

周辺の公営住宅群と調和するキャンパス

まちづくりの経緯・きっかけについて

編委:ありがとうございます。まちづくりの経緯・きっかけについて教えていただけますか。

淀野氏:14年前に、地元の方と私で「崇仁地区はどうしたら良いか」という会話を交わしました。このままではまちづくりが行き詰まった状態で、今後どうなるのかという問いかけに対して、私の方から思い切って芸大移転の話をしました。芸大の崇仁地区への移転は、実は京都市の某職員のアイデアの受け売りでした。

芸大は元々、西京区の沓掛というアクセスの悪いところにあったため市内中心部へ移転し、加えて建物が老朽化している、バリアフリー化なされていないということも背景としてありました。ところが、市内中心部は建て詰まっていますし、大きな敷地を確保できる場所はありません。

そこで、同和地区である崇仁地区では、改良事業が日本で唯一未完了であり、空き地が非常に多く点在し、将来の展望が持てないという状況にあったため、目につきました。

淀野氏:このアイデアには2つのメリットがありました。1つは、補助金の返還についてです。改良住宅や道路、公園を作るという環境整備は国の補助事業でもあるということで、当然その用地買収に補助金が入っています。それを住宅以外のものをつくるとなれば、目的外使用になるため補助金を返さなければならないという問題がありました。そこで、公共性が高いものや、教育・研究機能を持ったものであれば、上手くいけば返済が免除されるのではないかという思惑がありました。

もう1つは、京都市では財政が厳しく耐震性に問題がある古い市営住宅の建て替えの目処が立たなかった。そこで京都市内の中でも少子高齢化が最も著しく、空き地ばかりで活気がなく、かつ団地が放置されているという状況だったこの地区に大学をもってくることで、建て替えを進めることでができる。これは、地元も望んでいることでした。

心地よい緑道が整備されている

淀野氏:元々ここには崇仁小学校がありました。伊東茂光という有名な校長が提唱したのが同和教育の源流ともいわれる、差別に負けない崇仁教育であり、この地域の人は教育に対する熱意や誇りがあったということです。ここは京都駅に隣接する一等地ということで、過去には大型商業施設など色々な再開発の計画がありましたが、それらが頓挫する中で「文化教育ゾーンにしたい」という地元の思い意向が大きくなりました。

芸大移転には、市内中心部へ移りたいという大学側の要望と、この場所を京都の教育文化ゾーンにしたいという地元の思い、そして補助金の返還免除、あるいは建て替えその住宅の整備事業を進めることができるという行政上のメリットもありました。この3者の思惑が結びついて、移転が決まったということです。

京都市のスタンスについて

淀野氏:今回の移転の大きな特徴は、下京区全学区からの要望であったということと、反対運動が一切無かったということです。実を言うと、京都駅に隣接する一等地の土地利用としては他にあるのではないかという経済的観点からの異議は一部ありました。しかし、京都市は「ターミナル駅の東西に大きな公園と大学がある大都市は他にない。これが京都のまちづくりである」というスタンスでした。

芸術大学の外観・中庭

「芸術」によるまちづくり

淀野氏:一般の大学ではなく「芸術大学」ということにも大きな意味があると思います。芸大生は感性が非常に豊かです。この地域の歴史や差別を受けてきたという土地そのものに対する感性を、上手く自分たちの芸術活動に繋げていきます。また芸術というのは誰もが参加できるという側面があり、地域、住民との交流を生むタネになります。だから「芸大が来た」という意味は、単なる物理的なキャンパスの整備だけでなく、交流を通じて地域の課題を解決に繋げていくというのも大きな目的だったということです。2014年に移転が発表されましたが、翌年から大学が崇仁の新たな住民になるための準備をしていこうと取り組みを続けてきました。それは、学生と住民が一緒になって交流、協働を行なってきたということです。そして、学生が代々変わってもつながりが引き継がれてきているというのが、この地域の非常に大きな特徴になっているのかなと思います。

最後は柳原銀行です。あえて柳原銀行をここに残したのはすごく意味があります。崇仁地区は日本で3番目に大きい同和地区です。規模が大きいことに加え、地域の各団体が一つにまとまらず事業が進まなかったという経緯があります。当時地上げが横行し、このままでは町がなくなるという危機感の中で、保存運動がうまれました。この保存運動においては各団体の利害が対立するわけではなく、初めてベクトルが一致しました。自分たちの地域の文化、歴史を守ろうという点において各団体が団結したというのが非常に大きかった。これを機に崇仁まちづくり推進委員会という組織が結成され、そこから事業が進み始めました。そうした意味でも、柳原銀行をこのキャンパス内に残しておいたということが、地域にとっても、あるいはここを訪れる学生とか地区外周辺の方にとっても非常に意味があると言えます。

冒頭、芸大の移転だけに焦点が当たっていると言いましたが、このようにまちづくりには色々な要素が絡み合っているということだと思います。

キャンパス内に保存された柳原銀行

編委:崇仁地区への芸大移転は職員のアイデアだとお聞きしましたが、どの部署の方が提案された話なのでしょうか。

淀野氏:文化政策のトップの方でした。住宅行政の経験もあって、その感覚が非常に良かったのではないかなと思います。特に同和地区での事業というのは様々なハレーションがある可能性があります。生煮えの段階で外に出るとつぶれてしまうので、非常に大事に内部で揉んでいたようです。実際に面積が確保できるか水面下でかなり調査、検討がされたと聞いています。

編委:主導権的には文化行政側が握られて進めてこられたのでしょうか。

淀野氏:この事業は政策的にトップダウンが強かったと思います。

編委:周辺の市営住宅は京都の1つの地域文脈として日常生活でも感じていました。お話を伺っていて「芸術」そのものが持つ「包摂性」が本当にありそうですし、世界を見ていても難しい土地の文脈を持ってるところに芸術系のキャンパスを移転させる事例は結構ありますが、日本では初めてではないかと思っています。なので、京都市を代表する都市プロジェクトなんじゃないかなと思います。

淀野氏:肯定的な面ばかりを述べましたが、これをジェントリフィケーションにしはいけないと思っています。

編委:そうですね。これは常に表裏の話で存在している。そこで、世界の事例でよくあるとすれば、やはりお店ができるけど、単価が高くて結局地元の人が使えない。マーケットに任せていては適切な商品価格が確保できないかもしれない。

淀野氏:ここが難しいところで、ここも観光地してしまっているんですよね。観光客目当てのビジネスが増えており、価格が上がってしまっているわけです。

人口減少とまちづくり

編委:崇仁地区は人口が過去には最大で1万人とのことですが、現在では1,300人となっています。相当な減り方だと思いますが、その主要な原因と空き家の状況をお教えください。

淀野氏:市営住宅・改良住宅は低所得者層向けの住宅です。改良住宅においては環境整備を早急に進める必要があった中で、非常に小さな間取りの風呂もない住宅を大量に供給していました。従って10年、20年するとライフスタイルに合わなくなり、持ち家が欲しくなるという要望により中堅所得者層が大量に流出しました。

特に同和地区の場合は地区住民のための住宅という法的な位置づけがあるので、空き家に外から人を入れることはしませんでした。行政用語で属地属人主義といいます。崇仁地区の住民の方は、住宅事情の関係で一旦外に出ている人も多くいます。地域の方は一旦外へ出た人が戻ってくるために置いておくという意識が強いので、いわゆる地区外公募はほとんどしていませんもう1つが京都市は非常に財政的に厳しいので、今の公営住宅の数を維持していくのではなく、管理戸数を減らしていきたいという思いを持っており、現に入居している数しかで建て替えないというやり方をしています。

編委:芸大の移転を推進する一方で、周辺エリアの住民も含めて外の人を受け入れることや地域が大きく変化することには様々な意見があったと思うのですが、もしあれば教えてください。

淀野氏:外の人を受け入れる話ですが、私の個人的な意見ですがそこが崇仁地区の1番弱点だと思います。これを乗り越えない限り、この地域の先細りは目に見えているんです。芸大が移転しても学生は夜になったら帰ります。それでは地域の力にならない。やはりここに住んでもらって学業、芸術活動、地域活動、 これを一緒にやってくれることが地域の活性化につながります。京都人の二面性ですけど、京都人はよそ者には排他的で、一方で町衆は学生を育てるんです。 確かに排他性は強いですが、学生だけはそうはならない。そこに期待しています。地域も若い人に来てほしい、若い人が担ってほしいという思いは持っているんで、そこが突破口になればいいと思います。

編委:大学の移転の際の住民の代替えの住宅について同じ場所で借りられているのか、それ以外の場所で借りられているのか。

京都市:5階建てでエレベーターがないことや、耐震性に課題を抱えていました。その課題解決のために新しい住宅を建てました。また、崇仁地区内に以前建てた改良住宅があるので、そちらに移転していただきました。住宅の数としては足りていると聞いています。

新しい公営住宅

まちづくりのビジョンと地域の歴史の継承

編委:現在、グランドデザインやまちづくりにおける崇仁を統括したような戦略はあるのでしょうか。

京都市:崇仁地区では、まちづくりビジョンを地域の皆さんで話し合って作られています。一方で、京都市全体のまちづくりで見た場合に、玄関口である京都駅を中心にして、梅小路であれば西部エリアで、この大学があるのは東部エリアです。JRの線路を越えて南側は東南部エリアで、それぞれまちづくりのビジョンや活性化の方針をつくっているそうです。チームラボのミュージアム開業の話については、東南部の活性化の方針に位置付けられていて、駅の南側でもまとまった土地が点在しているので、各セクションが活用に向けて動いています。

編委:崇仁地区とその周辺の地域の意向を1つにしていく作業は大変難しいと思いますが、どのようにうまくされてきたのか。

京都市:移転を受けた時に皆さんがどういう風に感じられたかというのは、私が担当していないので、移転整備の計画の中でどういうことをしたのかということを紹介させていただきます。工事中のA地区という鴨川沿いの地区では、廃校となった崇仁小学校に確か樹齢90年ほどのイチョウが残っていました。その木は、崇仁小学校に伊藤先生という同和教育の源流であった先生がおられて、その伊東先生が来られた時に植えた非常にシンボリックなものです。移転の時にはそのイチョウの木を囲むように配置されて、工事の間もその木を痛めないようにきちんと工夫をしたことで、現在もすごく立派に残っています。それに対しては皆さんよく思ってくださっていると思います。

その他にも、まちづくりの歴史の中で残されてきた小さな石碑や灯篭があるのですが、大事にしてらっしゃる方もおられて、それらを新キャンパスの中に綺麗に配置し直すことも行いました。具体的にはE棟の北側に広場の周りに石碑を配置しています。また、鴨川沿いのところに同和教育の源流と書かれた大きな石碑は、かつて小学校の中にありましたが皆さん見てもらえるようにということで須原通沿いに配置しています。

このように地域の思い出を残したことについては、好意的に受け止めてもらっていると思います。

地区内に残されている石碑等

淀野氏:(部屋の中の扉付近を指して)できたばっかりで真っ白ですが、あそこだけ色が違いますよね。 あれは崇仁カラーと言いまして、各箇所にそれぞれで色があって、小学校や市営住宅で使っていた色です。このように地域の歴史を残しているんです。

クリーム色のデザイン

編委:様々な形で地域の文脈が継がれているわけですね。本日は貴重なお話ありがとうございました。

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