ニュータウンと住宅地開発の状況

2019年3月号

関西学院大学 角野幸博

 ニュータウン開発の平成も、他の都市計画事象と同様に、バブル景気の崩壊や阪神淡路大震災の影響、少子高齢化の進展などによって、成長から成熟へと軸足を移す転換点を迎えた時期であった。そこで以下の5つの視点から平成を振り返ることにする。

事業コンペによる住宅地開発

 昭和63年、昭和最後の年度となるこの年に、三田市のフラワータウンで「21世紀公園都市博覧会」が開催された。奈良県の平城ニュータウンが昭和62年3月に事業終了を迎えるなど、大規模な公的ニュータウン開発に区切りがつき始めるなかで、この博覧会は兵庫県が主催した「北摂・丹波の祭典」の一環として、神戸三田国際公園都市の開発に弾みをつける目的で開かれたものであった。フラワータウンの一角では「21世紀住宅展」が実施され、閉会後は実物展示された14区画に設計コンペで建てられた7区画を加えて、中央にコモンを持つ「アルカディア21」というユニークな街区が形成された。またカルチャータウンでは、平成4年にワシントン村と兵庫村とがまちびらきし、事業コンペによって開発された分譲集合住宅団地「リフォレ」でも、同時に入居が始まった。

 また神戸市では、大規模事業コンペによって開発が始まった六甲アイランドシティが姿を現して一世を風靡するなかで、西神ニュータウンや西神南ニュータウンでも、民間事業者による住宅供給をスムーズにすすめるために、事業コンペが連続実施された。

 大阪府でも、昭和62年の国際居住年に交野市星田で府有地のコンペが実施され、平成3年にまちびらきを迎えた。また昭和63年に事業コンペが行なわれた貝塚市二色浜には、平成3年にコスタミラ二色浜がまちびらきした。

 このように平成初期には昭和末期に構想された住宅地開発が、イベントや事業コンペという手法を使って実施され、ユニークなまちづくり提案が実現していった。しかしながら、分譲段階になってバブルの崩壊に翻弄された事業も少なくなかった。

都市圏縁辺部および大規模工場跡地等での住宅地開発

 公的主体による事業コンペ以外にも、民間主体による開発が大都市圏の縁辺部や丘陵地あるいは大規模工場跡地などで進められた。京阪電鉄による京阪東ローズタウン(京田辺市、平成4年まちびらき)では、イラストレーターのケン・ドーンを起用、宝塚の採石場跡地に開発されたラビスタ宝塚(平成2年第1期入居)では眺望を前面に押し出すなど、供給者側がまちのイメージづくりやテーマづくりに関心を寄せた時期でもあった。

 また南海電鉄が和歌山県橋本市で開発した林間田園都市というネーミングは、大都市圏縁辺部の魅力発信を意図したものであり、昭和62年と平成3年に三石台と小峰台で入居が始まった。明石方面では、JR大久保駅南側の神戸製鋼跡地の土地区画整理事業でオーズタウンが開発され、平成9年にまちびらきが行われた。また滋賀県方面では一貫して新規の住宅地開発が進み、東播磨方面とならんで人口増加が進む地域として注目された。

 公的主体による取り組みとしては、住宅都市整備公団(当時)が武庫川中流域の丘陵部に開発した西宮名塩ニュータウンが、平成3年にまちびらきした。また、大阪府企業局が関西国際空港の土取り跡地で開発した阪南スカイタウンが、平成8年にまちびらきした。

 平成7年に発生した阪神淡路大震災以降は、大都市郊外での開発は減少するが、それでも大阪府北部地域では、平成16年に彩都が、平成19年に箕面森町が、それぞれまちびらきした。平成初期から中期にかけてもバブル景気崩壊の影響を受けながらも都市圏の縁辺部や丘陵部での住宅地開発が継続し、市街地は都市圏レベルでじわじわと拡大しつづけた。

 やがて郊外での住宅需要が翳りをみせるとともに、より都心に近い工場跡地開発や、都心居住への関心の高まりによって、郊外での開発の停滞や売れ残りあるいは計画変更が見られるようになった。需要の減少に伴って、西宮名塩ニュータウンでは北半分の開発が停滞し、日生ニュータウンの一部では集合住宅用地から戸建て住宅用地への計画変更が行われた。また、行政などが先行取得していた土地利用問題が顕在化した時期でもあった。

学術研究都市というコンセプトの展開

 1970年代末に「関西学術研究都市調査懇談会」として計画がスタートした京阪奈文化学術研究都市は、昭和61年の同志社大学田辺キャンパス開設、昭和63年の木津川台入居開始、平成元年の国際電気通信基礎技術研究所開所、平成2年のハイタッチリサーチパーク開設などを経て、平成6年に都市びらきのセレモニーが行われた。その後徐々に整備が進んだ反面、同志社大学の都心回帰や共同組合ハイタッチリサーチパークの清算などもあった。複数の自治体にまたがるクラスター開発の評価や「文化」という言葉の具体的展開の手法、ゆっくりと時間をかける開発の可能性など、その評価はまだ定まってはいない。

 1980年代に構想が策定された播磨科学公園都市は約2000ヘクタールにわたる大規模なまちづくりである。兵庫県立大学や大型放射光施設を核に企業の研究機関を呼び込んだ都市づくりをめざして、平成9年にまちびらきフェスティバルが行なわれた。企業等の研究者は訪れるものの夜間人口の定着はすすんでおらず、スポーツ施設や福祉施設の整備などにコンセプトを拡大しながらのまちづくりが今も進行中である。

 平成を通じて各地で模索された研究学園都市建設は、大学の都心回帰や国際競争力確保のための企業研究所立地戦略の変化などに翻弄された。研究教育機能を郊外に拡大するのではなく、駅近辺や港湾地区の大規模土地利用転換などに合わせて誘致する試みが、JR茨木駅周辺、国立循環器病センターの移転に伴う吹田操車場跡地の開発、ポートアイランドなどで近年実現している。その他にも教育施設や研究機関の誘致を地域再生の切り札と捉えるところは数多く、今後も様々な展開が予想される。

震災復興にともなう住宅供給の特徴

 阪神淡路大震災では大量の住宅が滅失し、速やかな住宅建設が求められた。兵庫県の住宅復興3ヶ年計画では、災害復興公営住宅、民間住宅含めて125,000戸の恒久住宅建設が計画された。災害復興公営住宅については、38,000戸の計画戸数に対して42,000戸(うち新規供給25,100戸)が供給された。住宅建設用地の受け皿として、HAT神戸、六甲アイランド、西宮浜マリナパークシティ、南芦屋浜など沿岸部のニュータウンが注目され、たとえばHAT神戸では震災前に策定されていたマスタープランが大きく変更されて住宅用地が拡大した。

 こうした大規模団地以外にも、被災した工場用地や企業社宅、邸宅跡地などでの住宅建設が急増し、想定戸数以上の民間住宅建設がすすんだ。特に西宮、芦屋、神戸市東部では分譲マンションや小規模宅地が多数供給され、被災地以外からの転入者が増加した。こうした既成市街地内での住宅建設は、被災地間の復興格差を生むと同時に、間接的には郊外での新規住宅地開発への圧力を弱めた一因ではないだろうか。

成熟化と少子高齢化への対応

 都市の成熟と少子高齢化とともに、住宅政策も変化した。平成18年には住宅建設計画法が廃止され、住生活基本法が施行された。新規住宅供給から住宅ストック活用と住宅市場整備に軸足が移行し、オールドニュータウンでは団地再生への関心が高まった。千里ニュータウンなど市場性が高い地域では、公的住宅の老朽化に伴って敷地集約と建物の高層化をすすめ、余剰地を民間デベロッパーに譲渡して分譲マンション化するという方法が普及した。また各地のUR住宅や公社住宅などでは、老朽化した賃貸住宅をリノベーションして若年世帯の転入を図るという試みが成功している。公的住宅団地の再生に関しては、関西の建築系大学研究室や学生が協力する例も増えている。

 オールドニュータウン再生への関心は集合住宅団地から戸建て住宅団地にも広がっている。兵庫県は戸建て団地をふくむ兵庫県下の住宅団地をリストアップし、平成28年にニュータウン再生ガイドラインを作成した。川西市は平成23年に団地自治会、デベロッパー、金融機関などと連携して「ふるさと団地再生協議会」を設立し、また平成24年からは「親元近居制度」によって、市外へ転出した子供世代の市内への住み替え促進を図っている。また三木市緑が丘では民間企業グループが研究会を組織して活動を進めるとともに、市は一般社団法人「生涯活躍のまち推進機構」を設立し、団地再生に取り組み始めた。

 成熟と人口減少が進む郊外住宅地の持続と再生のためには、家族形態とワークライフバランスの変化に、都市計画としてどう対応するかが問われている。立地適正化計画において、計画的に開発されたニュータウンや郊外住宅地を居住誘導区域から外すことには抵抗があり、スムーズなコンパクトシティの形成につながるかどうかが課題である。

 また郊外住宅の再生については、鉄道事業者の役割が注目されるようになった。人口減少や通勤通学者数の減少は、鉄道会社にとっては死活問題であり、すでにほとんどの鉄度事業者が沿線活性化のための努力を進めている。旅客輸送と不動産開発だけではなく、総合的な生活支援サービスに事業領域を拡大し、結果として沿線ブランドの向上と沿線人口の囲い込みを図ろうとしている。郊外再生のステークホルダーとしての鉄道会社の役割が注目されるが、その結果が明らかになるのは次の時代である。

写真−1 建て替えが進む千里ニュータウン

【参考文献】

  • 各住宅団地の開発年代と概要については、個別には示さないがそれぞれの開発主体の資料及びホームページを参考にした。
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