神戸大学 竹林幹雄
はじめに
昭和の時代は成長の時代であった。特に戦後の復興経済 から高度経済成長、そしてそれらを支える全国総合開発計画 に象徴される需要追随型のインフラ整備1)は、正に(高度・ 安定)成長経済を背景にしたものであったといえる。翻って 平成の時代は、バブル崩壊に始まる「低成長」の時代であっ て、最近まで続く「戦後最大の好景気持続」といえども、昭 和の時代のそれとは趣が大きく異なる。こういった趨勢に、 我が国の国際輸送インフラは翻弄されてきた時代であったと 総括できよう。ことに関西では、初の海上空港である関西空 港の開港、あるいは阪神淡路大震災による神戸港の大規模 被災による機能停止など、それまでの国際輸送インフラでは 経験しなかった事象を集中的に経験し、世の中の変化を如 実に感じたのが平成という時代であったといえる。 本稿ではこのような平成期の関西の国際輸送インフラの 辿った歴史を振り返り、今後の輸送インフラの整備・運営と 関西のインフラ整備の今後を考えるための示唆を得ようとするものである。
平成期の港湾整備と運営:大競争時代
平成時代の最初はいわゆる「大交流時代」の幕開けの時 期であった。製造業の海外移転に始まり、国内での生産完 結から他国(特に台湾などの新興経済国 NIES と呼ばれる国・ 地域や後には中国)に立地した工場との連携で生産をより 合理的に行う、という戦略に日本企業も大きく舵を切ったと きであった。これは後のサプライチェーンの考え方につなが るものであったが、すでにその嚆矢がこの時期に現れていた のである。 昭和期のアジアでは工業化も進んでおらず、その結果港湾 に代表される国際輸送インフラの整備は日本と比べて大きく 立ち後れていた。それが平成に入り、韓国や中国、東南ア ジアでも大規模な港湾開発プロジェクトが相次いで立ち上が り、瞬く間に整備が進む、といった事態が生じた。よく知ら れた例は韓国の国家事業として行われた釜山港である。この 事業は日本企業などメジャーな企業のアジア進出の時期と重 なるが、それは先にも述べたサプライチェーンの変化ととも に、輸送のハードウェアたる船舶の大型化が可能となったこ とも大きな要因である。それまではパナマ運河を通過できる 最大船型(パナマックス:およそ 20 フィートコンテナ 4000 本が積載可能)までしか市場投入されなかったのが、パナマ 運河を通過しないことを前提とした大型船(オーバーパナマックスやポストパナマックス:6000 本以上を積載可能。現在 では 2 万本を超える船もある)が 1990 年代に市場投入さ れるようになった。こういった船はいわゆる「大水深(当時 の基準で 14 メートル以上の水深)」が必要とされる船であり、 そういった深さに対応する岸壁は従来の港湾ではほとんど存 在しなかった。ゆえにアジア諸国では新規造成することが多 く、整備意欲も旺盛であった。我が国でも大水深の岸壁は 当時ほとんどなかったが、かといって喫緊に対応すべしといっ た認識が今ほど強くなかった時代であった。これは空港でも 同じであるが、当時「インフラは十分に整備された」という ある種の「充実(安堵)感」があったのではないかと思われ る。国内の需要と供給を見れば、当時の整備レベルはある 意味「十分」であったとも見ることもできるが、「製造業の海 外移転=産業空洞化」といった新たな潮流(危機)を十分 に意識した上で、それでも十分と判断したのかどうかはわか らない。なお、平成 7 年に発生した阪神淡路大震災という 未曾有の災害により、神戸港は甚大な被害を被ったのである が、これによって神戸港の国際的な競争力が奪われ2)、釜山 港にいわゆるハブ港3)としての地位を奪われた、というよう な意見を耳にすることが少なくない。確かに震災は神戸港の 転換点に発生したことではあるが、それが神戸港の競争力低 下の主要因ではない。これは横浜港においても後にハブ港と しての地位を低下させていることから明らかである。被災は あくまでもきっかけであり、実態としては「時代の流れに対 応していなかった」整備・運営こそが問題だったといえる。
2000 年代に入ってからは、競争力強化のための整備計画・ 政策実行が矢継ぎ早に行われた。基幹航路(北米・欧州航 路)を我が国の港湾に維持するための政策としての「スーパー 中枢港湾」や後の「国際コンテナ戦略港湾」といった国の肝 いり政策においても、神戸港は選択されており、中でも国際 輸送インフラでは大阪港との経営統合・運営の民営化策を 打ち出し、阪神港として政策をリード・象徴する立場にある 港湾となっている。また、この政策を効果的に遂行するため に、背後地である関西経済との連携を密にする必要があり、 特に港湾との貨物のやりとり(ドレージと呼ばれる)における ドライバー不足などに対応するための各種支援策、物流の活 性化のための特区の指定などが実施された。
平成期の関西の空港事情:関西 3 空港時代
大阪空港(以降、伊丹空港)での容量不足・騒音問題に 端を発し、関西に新たな空港を建設しようとする動きは、昭和 30 年代にまで遡る。それが紆余曲折を経て実現したのが、 平成 6 年 9 月に開港した関西空港である。泉州沖という関 西の中心地からは 1 時間以上も離れたところに立地した、そ れも人工島によるもの、というのは当時としては相当に珍し かった。国内線と国際線の乗り継ぎをスムーズにし、旅客の動線も明確化する、という当時としてはかなり先鋭的な設計 コンセプトで設計された空港である。
この関西空港は運営の面でも「中曽根民活第 1 号」として 知られるように、あらゆる意味で平成時代のインフラ整備・ 運営を象徴するものとして建設されたのである。この「民とし ての視点を生まれたときから持っている」という点が、良くも悪くも関西空港を後々まで拘束することになる。
関西空港は当初から伊丹空港と比べて交通事情が悪い、 ということが指摘されてきた。アクセスに時間がかかり、費用も馬鹿にならない、というものである。この点は航空会社の路線設定にも影響しており、開港当初は国内線の長距離路線はすべて伊丹から関西に移転ということになっていたが、 これが後には伊丹に回帰している。これがいわゆる航空会社の「伊丹シフト」につながり、ドル箱路線と言われる羽田、 札幌路線などの多くは軒並み関西から伊丹に戻ってしまっ た。これにより、関西空港の「売り」の主要ポイントであった 「内際乗り継ぎ」機能は大きく削がれてしまった。
これに加え、関西空港で国内線にかなりの路線を運航し ていた日本航空(JAL)が平成 22 年に経営破綻し、国内線の路線を大幅に縮小した。結果として、関西空港の路線の 相当数が撤退となり、関西空港の国内輸送網は大打撃を受けた。一方、国際線はアジア、特に韓国、中国路線が成長し て、それなりに発着数を伸ばしてきていた。結果として、関西空港は近距離国際線を主軸とした(ほぼ)国際線に特化した拠点空港、という位置づけに変化してきたのである。ただし、空港建設のための借財が膨大であったため、その財務事情は決してよいものではなく、「赤字空港」として存続を危ぶむ声も当時は(今からでは信じられないが)有識者の一部から上がっていた。
この流れに加えて、関西での大都市発着の国内線輸送力増強という意味で神戸空港が建設された。神戸空港は関西空港と同じく海上空港であるが、空域上の問題から年間発 着回数が制限され、用途も国内線に限定される、というかなり異例の空港として供用された。この結果、関西には距離にして50 キロ圏内に3つの空港(滑走路数にして 5 本)を有するという我が国でも屈指の滑走路容量(単純計算で 40 万 回弱の年間発着容量)を持つエリアになった。
一方、この 3 空港時代は関西空港の慢性的な赤字体質に端を発する「合理的な運営」問題に発展し、3 空港の使い方、 運営の仕方に注目が集まった。折からの空港民営化の流れ(一 種のブーム)もあり、関西空港は伊丹空港と経営統合し、その運営権は平成 28 年 4 月に関西エアポート(オリックスと バンシによるコンソーシアム)のコンセッション方式によるという完全民間型経営に移行した。後には神戸空港の運営権も統合し、関西 3 空港は完全に1社による運営が行われるという、またも国内初の試みが実現したわけである。
関西空港は完全民営化に先立ち、国内初の Low Cost Carrier(LCC)用のターミナルを 2012 年に整備し、関西空港を拠点とする Peach Aviation がそのターミナルを占有的に 利用する、という方式をとった。そして、その後の LCC ブー ムに乗って、関西空港はインバウンド旅客の急増によって「LCC の巣」と呼ばれるほどにまで成長している。その果実は観光需要拡大をはじめとして広く関西全域に広がっている。
おわりに代えて
本稿では関西における大阪湾港湾の平成期に辿ってきた 変遷を簡単に振り返り、そこから得られる示唆について考えてきた。関西では防災機能強化やコンセッション方式による 運営権売却など、我が国初といえる試みが行われてきたとはいえ、やはり、国際輸送インフラ整備は「後手」に回ること が多かった、という反省につきるのではないだろうか。近年は国の政策でも「戦略」という言葉が頻繁に使用される。戦略は「短期的な勝敗」に拘泥するものではない、もっと長期的な視点から「何を得、何を犠牲にするか」を明確にした上で、立案すべきものである。その意味で平成という時代は、 従来タイプの整備・運営にある意味こだわってきた関西、強いては我が国の国際輸送インフラ整備・運営方法が大きくそ の視点を変えなければいけなかった時代と総括できよう。
注釈
1)必要とされているから造る、といった考え方を意味する。
2) 神戸港が震災前の貨物取り扱い個数を超えるのは平成 29 年であ
る。実に 20 年以上の歳月が必要とされた。
3)本稿では慣用的にハブ港と表現しているが、正確には「積み替え港
(transshipment port)」と呼ぶ方が正しい。